■NO-43[精素学] 聖 賢 と は
聖賢とは一体何なのだろうか?聖賢は本当に実在するのか?現実、歴史的聖賢と言われている人も何人かいるものの、それらの人物は本当に聖賢だったのか?今回はこれらの聖賢に対し述べてみる。これらの聖賢を見る限り、殆どが紀元前か又は初期頃の人物であるのが特長である。そこで考えられるのが昔と今である。古代では聖賢が実在したが、現在は何故いないのか?これも大変不思議なものである。そして聖賢とは何を意味し、聖賢はどのようなものなのか?聖賢とは字のごとく賢明であるということだが、この世の中にそのような人がいるだろか?人間と動物の差は、動物よりも人間が知恵があるだけのものであって、その生態は動物と変わらないものであれば、動物生態に聖賢はあり得ないのである。つまり、聖賢と呼ばれた人はたまたま環境と条件でそのようになってずるずるひかれていったのが後の人によって聖賢とか仙人等の名を与えたことになったのである。具体的言えば、心というのは体から湧くものであって、体の条件を無視した心はあり得ないのである。人間の遺伝本能は皆、動物本能から発展したもので、人間の心は単なる動物と変らないものだが、その心のコントロールによって、痛くても痛くないふり、女か欲しくても欲しくないふり、権力や名誉が欲しくても欲しくないふり、お金が欲しくて物が欲しくても欲しくないふりをしながら我慢して耐えるのが人間の知恵であり、それぞれの環境に実に旨く適用させ、処世したことによって聖賢という名を受けただけだ。その反面、英雄はどうか?これは全く聖賢とは正反対で、自己本能を隠さず思うままに権力を奪い、思うままに人間本能性をそのままうきぼりにして暴れたものであれば、聖賢人はその反対に英雄心を殺し、心で耐え、体を抑え、表情を隠し、欲を我慢し、大衆の中に解け込んで生きようとしたのが聖賢となっただけなのである。そのような訳で、英雄も聖賢も実のところ何一つ変わらないものであることは間違いないのである。聖賢も英雄もこれ皆、動物であれば、その心と体はやはり動物本能から逃れることは出来ないのだ。我慢の強いのが聖賢であれば、我慢の出来ないのが英雄であり、その我慢が出来たのも出来なかったのも、唯々その人の環境と条件によったものである。
著 力 抜 山