NO-274[精素学] 天 生 地 仏
天での神の如く、地での仏の如く、体は人間であってもその生き方は神や仏のような生き方をしなさいという意味である。天で生きる、我は汚れた地球に生きているが飽くまでも天国に生きているかのようにし、常に神のように又は宇宙の高貴な存在と同等にし、常に宇宙パワーに保護され、己の周辺で起こる不気味なものは宇宙エネルギーが取り除いてくれ、宇宙は常に自分に働きかけ幸せに導き障害物を除去させ、未来を約束させてくれると信じて生きる。そして地仏は字のごとく私は人間でなく生きている仏であり、耳が有っても無いものと等しく、目が有っても見えないのと等しく、口が有っても話さない、鼻が有っても臭いもかかない、手足が有っても殺傷しない、頭があっても考えない、寒さ暑さに挫けない、我は宇宙も世間も家族も友人も楽も苦も過去も未来も何も無い。果たして人間にこんなことが出来るだろうか、そのような人間になって何になる。人間は人間らしく楽しいときは喜び、悲しいときは泣き苦しいときはお互いに励ましあい未来を考えるのが人間ではないかと言う人もいる。勿論人間は一生一死、一度生まれたものは必ず死し、一現一滅、一度現れたものは必ず消滅する、同居道楽人間は常に家族を持ち社会から国家へと発展があってこそ生きる価値が有るのではないか。これも一理的な要素で人間としての生き甲斐が有るかも知れない。だがこの理論は現次元での理論であって高次元では通じないのである。つまり天生地仏は高次元での生き方である。では何故高次元の生き方が必要であるのか、其の理由として現次元人間の生き方では幸せはありえないからである。現次元人間は余りにも欲が多く本当の幸せを味わえないからである。純粋な愛もお金で破滅し、権力者は弱いものいじめに明け暮れ、役に立たない戦争を起こし善男善女を殺す、そして地球は汚れ動物は殺害され清潔な心をお金で汚し、美しい顔も欲で破滅、何もかも、権、金、欲、で体を滅ぼす現次元の生き方、そこには苦だらけで幸せなどは有り得ないと言う話である。高次元人間即ち、天生地仏の人間であれば全てのものを超越した生き方で、心は天にあり、体は仏にあり、楽道と幸せを永遠に満喫すると言うことだ。現次元の人間では想像も付かないものである。低次元の不満は高次元で解決し、四次元の不満は五次元で解決するのであり上の次元ほど人間は幸せになるのである。
著 力 抜 山