研究と開発

NO-166[精素学]  原因と科学

人間は科学によって進歩し、科学によって発展をなしてきた。科学これは実に人間だけもつ特有なものであり、人間だけの唯物である。人間はこれから先も科学を主張し科学を創造する。科学的な知識、科学的な常識で唯物観が現われ、ついに人間はものに対しての愛着が深まり、何もかも科学的な現実でものを解決しようとする。科学的な先見、科学的な現実、科学的な過去の推理、全てを科学的に計算してものを解決しようとする動きがある。勿論これは人間の進歩から来たものであることには間違いない。そこで問題となるのは、科学が何処まであらゆるものを正確に解明することが出来るかである。 科学これはあくまでも結果から現われたものであり、結果から統計されたものである。してみると科学は常に結果だけ追うことになり、その原因に対しては暗いところが多いのだ。そこで現われたのが哲学になるわけだ。古今東西哲学者は結果に対しての原因を探ろうと必死だ。だがそれも並大抵なことではない、そこには道筋というものがあって、哲学理論と科学理論がある程度あてはまらないとならないからだ。即ち哲学者は科学者よりも数倍の識見がない限りその理論は成り立たないからだ。例えば人体の構造は骨と筋肉と神経から成り立っていて、その中にあらゆる器官があって血液と細胞の働き、そしてもっと深く入った科学データーに基ずく理論、このような理屈と述語で科学は着々と進歩していることには間違いない。だがその科学が果たして何処まで結果をつきとめ、ものを解決することができるだろうか。そこで言えるのは科学はあくまで結果論であって原因論ではないということだ。原因あって結果あり、結果あって未来があるというのは常識である。原因をつきとめない科学理論はその矛盾が大である、これを矛盾科学という。人間の始まりは、宇宙の始まりは何処からか、人間の死後は、宇宙の最期は、何れも科学の力では究明し難い。そこで我々人間は科学に片寄っても失敗し、哲学に片寄ってもならない。これを旨く調和して生きて行くのが賢明であろう。即ち宇宙も人間もそして全てを神が造った、いや宇宙も人間も全ては自然に造られたものである。この両者共,一理はあるのだ。だが結果としては一つの理論を分けて争っているのにすぎない。

著 力 抜 山