研究と開発

NO-111[精素学]  愛 の 実 態

愛は盲目であり、愛は受けるものでなくあげるものだと言う。はたしてそのようなものだろうか?愛の種類、愛の中味、愛の真実、様々な愛があるものの、それらのものを我々はどう受けとめられるだろうか?愛の種類は相手に対しての尊敬と親しみからくる様々なものであるが、その中でも一番我々に近いのは、男女の愛、親子の愛などか擾位をしめるものであろう。中でも奥深いのが男女の愛になる訳だ。男女、これは自然法則での結び付きであり、生態でのバランスでもある。そのような訳で、男と女の愛は理屈でなく、実践なのである。だがこの愛もだんだんその根本が崩れ物質化して来た。いや、もはや物質愛に変形したのである。女が男を愛する前にお金があるのかを探り、男は女を愛する前に経財のことを心配する。これらを見ても愛は盲目という時代は去ったようだ。お金のあるうちは愛が成立するものの、お金がなくなると愛も壊れ、人情道徳もあったものではない、義理がお金を産んだ時代は去ってしまった。。純粋な愛は汚い金愛になってしまい、純粋な政冶は金権政治に変態し、純粋な社会は交金社会になってしまったのである。これを見ても愛の時代は終わったのであり、愛の実態はもはや消えたのである。そして愛は、ただのおだての愛に過ぎないものになってしまった。これから先はもっと酷くなり、愛という言葉さえ記憶に残らない冷たい世の中になり、愛はただのSEXに変わり、物質とSEXだけで通じる世の中になるのである。夫婦の金愛によって離婚率は高まり、親子の金親によって尊敬は消え、社会の金交によって良心は隠され、世界的金権よって戦争は絶えないのである。これから先、お金が世界を滅ぼすのは確実である。ノストラダムスいわく、今世紀末に人類が滅びるのに対して、光の反対のものだといった。それはおそらく金権の争いで世界は滅びるということであろう。では一体、本当の愛は何を意味するのか?これを一言でいうと、ただ好き、ここから先は考えない愛、ただ会いたい、話したい、一緒にいたい、ここでうち止めた心の愛、そして愛には理論もなければ経済もないのだ。愛があればお金もつくれるのであり、愛があれば名誉も得られるのである。愛があれば家も出来、愛かあれば世界も平和になるのであるが、これが逆立ちして、金権であっては、愛という存在はないのである。入間の本質は埋もれつつあり、やがて人間もろとも金愛と共に屍になってしまうのである。人間を救うのは純粋なる愛だけである。

著 力 抜 山