研究と開発

NO-101[精素学] 因果法則と運

因果は運を作り、運は因果を作る、運と因果は切り離せない関係がある。これには結果論と未来論がある。その根本たるものは、因果法則なのだ。原因無しの運は無いもので、一般その結果を運と呼ぶのだ。流れには必ず何かの元があって、それに乗り流れながら様々な変化を起こすのである。、船は水の上にて流れ飛行機は空気に乗って飛ぶように、いかなるものでも、その流れに対しては、そのものの力を無視出来ないのがある。宇宙はパワーと磁素の因果によって流れ、人間は遺伝と記憶の因果によって流れ、地球は重力と次元の因果によって流れるのてある。そのような訳で、全てのものには見えない設計ぶつがあって、その設計によって様々なものが出来上かるのである。しかし、運も現在ではその解釈が異なり、唯、漢然なものになってしまった。人間はその運を信じようともしない。一体何故そのようなことになったのだろうか?それは、因果の成り行きがあまりにも複雑で、計算では現せないものがあるからだ。つまり宇宙法則は精密極まり無きもので、時間的、計算的あまりにも矛盾がない細かいもので、我々二次元の脳では流れを計算することが出来ないからである。そして計算が可能だとしてもあまりにも時間が必要なので、その間に別の法則が働いて変化してしまうからである。結果的、宇宙法則は計算出来ないのである。因果法則の公式はあまりにも大きくあまりにも小さいのでやってもやっても果てのない公式、分けても分けても底のない細かい公式、とにかくその広さと狭さをいかにして組み合わせればよいのか?最後は頭が狂ってしまうばかりになる。人間の左脳判断では、どんなに賢い人間でも因果法則は知ることが出来ないのだ。仙人道士であっても、運の成り行きは確実に判断が出来ない。そのような訳で人間は運を捨て、努力を主張し、努力なしに運はやって来ないと決めつけてしまうことになった。勿論これは因果があるからこそ努力するようになったことには間違いない。因の無い人はいかに努力しても目的が果たせないのであり。全てのものの成功はそれなりの磁素場があって、はじめて努力するようになり実ることになる。運の無い人は努力しても、その努力に精がこもらず、あるところで挫折してしまうのである。即ち二次元の因果は三次元で知り三次元の因果は四次元で知る。現実ゴミ一滴が浮いているのも唯、浮いているのではない、それにはそれなりの理由の元で浮いているのである。

著 力 抜 山