前置き

●「精素学」を読む前の心がまえ

■なぜ「精素学」と呼ばれるのか
人間には、中脳に、宇宙電子(磁素)を受電し、生物電子(精素)をに変換する力がある。
そして、貯蔵された生物電子を、コントロールする神経がある。
そのコントロール神経からは、様々な電子が放電される。
その電子を体内や自然、宇宙といったものに衝突させ、その反応によって、粒子から銀河宇宙まで、様々な現象を解明したものだからである。
生物電子・精素によって、感得されたものを体系化したものだから、「精素学」なのである。

■「精素学」の可能性
現代科学の手法は、2つの手法のよって、証明され学問となる。
1つが、「誰でも、どこえ行っても同じ結果が得られ、しかも、反復が可能である事」である。
もう一つが、「仮説をたて、それを裏図ける事が出来れば、それは正しいとみなす」とうい方法である。
「精素学」を1つ目から証明することは出来ない。もともと、個人の脳力で感得したものだからである。
この点から、科学者たちは、「精素学」を妄想と呼ぶかもしれない。
しかし、2つ目の手法の観点から、「精素学」を一つの仮説としてとらえ、これを、証明する形で、逆に研究を進めることで、通常の思考による発展とは別の発展につながる可能性がでてくる。
「精素学」の様に、ヒラメキや感によって作られたものを、盲信するのは、危険でありまた、科学とは言えない。
客観的証明があってこそ、人類社会に貢献できる科学・哲学・思想になるのである。
極論すれば、科学者の研究の着眼点を広げたり、一般人の物事の捉え方を広げたりするためにあると言って良い。

■「精素学」原文に出てくる、科学用語は、全部、科学とは、同じでない。
比喩的に使われていると考えるのが正しい
(著者の力抜山氏が、科学者でなかったのにも、起因する)。

例:酵素体・・・化学的・電気的反応の触媒をするもの
(科学で言う、酵素は、生体内における化学反応を、促進させる高分子体をいう)。

■「精素学」の今後の問題点
著者、力抜山氏は、2007年4月6日に亡くなられてしまったので、その後の記述はない。
また、原文は、著者の一瞬の感得されたものを、一気にその場で書き記したものであるので、単語(造語)に統一性がない、短い文章に、内容を盛り込みすぎて難解である等、そのままでは、一般人や科学者に公開しても、意味がない可能性がある。
そこで、「解説書」が必要と痛感するようになった。
しかし、著者が亡くなられてしまった現在、著者の意図と違った解釈で、「解説書」を書いてしまう可能性もでてくる。 また、すべてについて完全に研究されたものではなく、途中のものも多い。
そこで、「原文」はそのままの形で残し、「解説書」は、解説者の経験・思想が入ったものと一歩下がった態度で接するのが望ましい。

最後に、全ての人が、自分の力で、必要な情報を感得できるようになれば「精素学」は要らないと考えます。