研究と開発

N0-78[精素学]   三 大 運

三大運とは生運、自運、合運のことである。これを別の形で言うと精素、覚素、推子と分かれる。つまり生運は精素に属し、自運は覚素に相当し、合運は推子にあたる。何故ならば生運は精素版図からつくられ、その根源は中脳パワーにあり、中脳パワーの源は生態細胞にある。生運即ち生まれた時点で既に決まったもの。猿から生まれたのは猿であり、犬の子はやはり犬であるように、お金持ちの子に生まれたのも貧乏に生まれたのも、男になったのも、女になったのも、アメリカ人になったのも日本人になったのも、これみな生運に屈するのである。そしてこれらの生運はみな精素版図の中に刻まれているのでどうにもならないのだ。そして生まれた人間は生活環境と記憶、あらゆる体験によって心がつくられ、意志と思想等が発達し、自分の行動や欲を取り入れることになり、決めた心によって生きていくことになる。覚素には遺伝覚素と次元覚素、本体覚素と複体覚素によって磁素場がつくられ、その磁素場はさらに未素場をつくって社会または目的に適合させるのである。では合運はどうか?これは推子の働きによるので、あらゆる推子は精素電子の力を得て体質をかえ、単回推子復回推子の働きで推線波長を出し、全ての物質あらゆるヱネルギー、そして人と人との波長と摩擦されて相対極対は勿論、人間との交流生気体等の反応等によって良いチャンスがつくられたり、またはその反対にもなるのである。人間お互いに好き嫌いが生じるのも殆ど推子の波長からなるのである。運というのは運ぶもの運ばれるもの、あらゆる運動と行動から成り立つという意味で、昔の人は旨い言葉を使った。そうした解釈は、出来る前も運、出来た後も運、生まれるのも運、死ぬのも運、やるのも運、やらせられるのも運、成功するのも運、失敗するのも運となれば、なんでもかんでも運といったものの、運というのは始めから終わりまて決まっていて不変なものであり、絶対的なものであると信じられたのである。そのような訳で運という字を使ったのは単なる思想と理論で成立したものでなく、あらゆる人間の経験と体験に基づいて運という字を用いるようになった。実に人生哲学そのものである。これらの運をもっと明確にしたのが私の論法、宇宙版図と精素版図である。つまり宇宙は設計されていない設計によって動かされており、人間も見えない設計図によってはじかれていくということだ。精素版図は生態細胞から、磁素版図は遺伝から成り立つのである。

著 力 抜 山