研究と開発

N0-74[精素学]    限  界

限界と極界、そして境界と質界、とにかく全てのものにはある一定の限界があって、全てのものに寿命が成立するのだ。体命は限界で心命は境界なのだ。寿命、これは避けられないもので、いずれは壌れたり、つぶれたり死んだりするのである。寿命限界には力も知恵も勝てないのだ。寿命これこそ生まれつきの賜物である。では一体この寿命は何が原因で起こるのだろうか?これを簡単にいうと回転法則なのである。回転法則にも色々あって、自然ではエネルギーの回転、国では物資の回転、家庭では経済の回転、個人では頭の回転、体では血液の回転等である。それらの回転が旨くいく時は生化になるのだが、回転が鈍くなれば老化するのである。更に、あまり遅くなりすぎると癌になるのである。心身共にあらゆる回転が鈍くなって進歩が止まり、速くなりすぎても内乱が起こるのだ。血液の流れも同じことで、流れが速くなっても病が生じ、遅くなっても老化するのである。そのような訳で限界の敵は速まったり遅くなったりするところにあると思えば間違いないのだ。人間寿命の限界は平均して200才である。だが、日常生活をあせったり、健康をそこなったり、心の乱れや怠慢等が寿命を縮め100才以内で殆ど死ぬのである。してみると殆どの人間は自分の寿命の限界を全う出来ず死去することになる。ではその限界を破ることが出来るだろうか?それは大変難しく不可能に近いのだ。だが宇宙法則によれば全てにこれだというのはない。何かの奇蹟によって限界を破ることもありうるのである。奇跡一体これは何を意味するのだろうか?一言でいうとパワーと覚素の働きである。即ち寿命というのはパワーと覚素によるもので、パワーと覚素が何かの力によって補拾されれば限界を越えて、次の限界まで生きのびることが出来るのだ。中国の道師、諸葛孔明も長命燈を設置し寿命の限界をのり越えようとしたが、ついに果たせず54才の短命で果てたのだ。これをみても寿命の限界は自己能力では出来ないということがわかる。では何をもってすればなるのだろうか?それには様々な原理があるものの、その主たるものは遺伝覚素である。遺伝覚素が中脳のパワー覚素に触れれば可能なのだ。力抜山流借力は、古代流の借力とはその鍛え方が根本から異なるので、最初から寿命の限界を突き破る方法として構成されたもので、十差が終わると確実に寿命の限界を打ち破る事が出来るのである。

著 力 抜 山